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土の器の宝
スイセン

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」 コリント人への第二の手紙 4章7~11節 だから、わたしたちは落乱しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに、わたしたちに得させるからである。わたしたちは目に見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」 コリント人への第二の手紙 4章16~18節
担当:佐川直実 牧師 

1、「土の器」とは私たち。「宝」とはイエス様。(6-9節)
土の器とは、もろい存在です。ちょっとした衝撃で壊れてしまったり、欠けてしまいます。これは私たち人間のことをたとえています。しかし、そんな私たちはイエス・キリストという“宝”をうちにいただいています。このお方はどんな衝撃にも耐えられる力強いお方です。どんな逆境の中でも、希望と導きを与えて下さいます。ですから、私たちはイエス様にあって「途方にくれても行き詰まらない」のです。
2、弱い時にこそあらわれる、イエス様のいのち(10―11節)
私たちには、なるべく苦しみや困難を避けようとする本能がそなわっています。ですから、誰も自分の弱さや試練を歓迎する人はいないでしょう。しかし聖書は、私たちの弱さや苦しみを通して、一番神の栄光があらわされると語ります。(ヨハネ9:3、Ⅱコリント12:9-10)
イエス様が神の子としての力を最大にあらわされたのが十字架であったように、私たちも苦しみや弱さの時こそ、うちにおられるイエス様のいのちが輝くというのです。これは人間の常識では考えられない、素晴らしい事実です。ですから、うちに宝をもつ私たちも、苦しみや罪を隠すのではなく、むしろそれを正直に認めて主の前にでさせていただきましょう。私たちの主が、私たちの欠けた所から輝いてくださいます。
人間には欠けの様に思える所から輝いて下さるイエス様に、ますます期待して歩みましょう。


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