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祝福への出発
すいれん

 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。
聖 書  マルコによる福音書14章9節
担当:加藤満 牧師 

 2017年 6月 25日(日)  主日礼拝
「放蕩する愛」

  「神様の愛」と「人間の愛」は違います。私たちは愛する事が正しい事と知っていても、実際にそれを行うことに困難を感じるお互いかもしれません。しかし、神様の愛は「人知をはるかに超えたキリストの愛」(エペソ3:19)。巨像をなぞる様に、今朝はマリヤの愛から神様の愛を聞かせて頂きましょう。
 1. 放蕩するマリヤの愛
 イエス様は受難の初めにベタニヤのシモンの家で食卓のおもてなしを受けました。その中で、マリヤは純粋で高価なナルドの香油を惜しげもなくイエス様の頭に「注ぎかける」のです(3節)。
 マリヤはイエス様を愛してこの事をしました。目的は間違っていません。ただ、限度を超えているのです。人の目には「もったいない、無駄使い」と写ります。マリヤは放蕩するかのように愛を注いだのです。

 2. 放蕩する神の愛
 しかしイエス様は、誰も理解できなかった彼女の愛をしっかりと汲み取られました(8節)。そして、これこそ「福音の記念だ」と言われたのです(9節)。何故なら、マリヤのこの行為が「福音」・「神の愛」を物語っているからです。
 神様の愛は私たちの目には無駄の多い愛では無いでしょうか。イエス様はこの後十字架へ向かわれます。神様を否む事しかできない罪人の為に、罪の無い神の子が身代りとなられたのです。何と「もったいない」事でしょう。
 けれども、これが「神様の愛」なのです。「無価値な者に全存在を与える愛」。あまりにも放蕩しすぎていて、 私たちには理解し難い愛なのです。神様の愛の照準は損得ではなく、「存在」に向けられます。創られた一人一人を何ができるかどうか関係なく、放蕩する様な愛で愛し続けて下さっているのです。

 3. 放蕩するわたしたちの愛
 マリヤは何故、この神様の愛の業を行えたのでしょうか。それは彼女がイエス様の足もとで「自分は神様に愛されている」事を知ったからでしょう。
   愛されなければ愛せません。満たされなければ流れません。神様の愛は私たちの器に注がれ続け(ローマ5章5節)、溢れ流れて香りを放ちます。
 無価値な自分が神様に愛されている事を受け入れる事が最も困難な霊的修養です(H・ナウエン)。神様の愛に満たされ溢れて、誰かの為に自分のナルドの香油を放蕩するばかりに注ぐ者とならせて頂きたいのです。

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