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神にささげる生涯 
朝日に輝くセンリョウ

「わたしはまた主のいわれる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」」
聖 書  イザヤ書6章1~8節

 新しい年をむかえました。何が移り変わっていったとしても決して変わることのない神様の愛の中に、今年も私たちは生かされて歩むことができます。神様に愛されているという事実を知っているということは、どれほど大きな恵みでしょうか。当たり前のことではありません。改めて私たちが今の時代に遣わされている使命の重大さをおぼえています。どんなに科学が発達し、生活が豊かになったように見えても、人々の心は昔から変わることなく、神様の前の罪と不信仰にあふれているからです。
 イザヤの立てられた時代も、見た目には熱心で信仰深く見えても、実際には自分の満足のために神様を忘れ、罪にどっぷりつかり汚れにまみれていました。そんな中、イザヤはあふれるばかりの栄光にまみえ、自らの罪深さと無力さを思い知らされます。しかしそのイザヤに神様は近づき、神様自らがその罪をゆるしきよめてくださったのです。
 私たちも神様の前に出ることによって、自分の本当の姿を知ることができます。そしてその現実は絶望しなければならないほどの汚れと罪にあふれたものかもしれません。しかし神様は、その私たちを選び、しかもきよめて遣わしてくださることができるお方なのです。イエス様はこのように語られました。「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちはさいわいである、彼らは慰められるであろう。…義に飢えかわいている人たちはさいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」主が声をかけられる時、私たちを聖別して遣わすことのできる神様を信じ、従わせていただこうではありませんか。

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